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浄光院について
浄光院について

浄光院について

住職あいさつ

浄光院住職

自然環境の変化に適応しながら社会がつくられ、情報や技術は進歩してきました。私たちを取り巻く生活環境が刻々と変わりゆく中、社会が求める寺院のあり方、僧侶のあり方も変わりゆくものなのかもしれません。

社会の役に立てる寺づくり、また、皆様に気持ち良くお参りしてもらえるような寺院運営と管理を心掛けております。

浄光院 第40世住職 宣芳(せんぼう)

浄光院マップ

浄光院について

浄光院は正式には「應化山 浄光院 佛性寺(おうけさん じょうこういん ぶっしょうじ)」といいます。
(おう)」とは「応」の旧字体で「こたえる」という意味の漢字です。
」は「死」という漢字が変化したもので「ばける」という漢字ですね。
應化山」とは「死」にこたえる山。
のどかな田園風景は「故人」に、「私たち」に優しく穏やかに寄り添ってくれます。

浄光院の仏さま

浄光院の沿革

1165年 平安時代末期

浄光院は永万元年(乙酉年)の6月7日に、宥宗和尚によって開山の儀式がなされたと伝えられています。
歴代住職の墓碑のひとつに、永い年月を経た自然石(河原石)があり、風化のため判読するのが難しい状態でしたが、現代の技術によって拓本を刷り上げることに成功、平成に入りようやく判読することができました。

ここ、矢板市豊田という地区は明治の初期までは稗田村と呼ばれていました。
現在も寺の東北東500m付近に湯泉神社という旧村神があり、その神社の由緒沿革によると、仁安元丙戌年(1166年)那須与一宗隆の兄、朝隆(資隆九男)が文治3年(1187年)九月に稗田村に封ぜられ、稗田九郎朝隆と名乗り、村の南方を寄居として稗田城を築きその西方二〇〇米の地に湯泉神社が勧請され、当寺を祈願所としたのだそうです。

天正3年(1575年)11月と文久3年(1863年)に二度に渡り火災に見舞われましたが、第34世住職の海心和尚によって再建され、今に引き継がれてまいりました。